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書き出しの一行(ライター遠藤泰男)

こうして名作といわれる小説の書き出しの一行のいくつかを見てくると、これらの書き出しには、その後に興味を抱き次の展開を期待させる魅力があることに気付く。だから、書き手としては散々苦労するのである。書き出しに失望させると、続けて読んでもらえないということになる。魅力のある一行を引き出すために、テレビドラマの中の小説家ではないが、原稿用紙を何枚も無駄にするという涙ぐましい光景も理解できないわけではない。しかし、学校のノートにも不自由した世代としては、丸められた原稿用紙をもう一度ひろげて使いたい気分にもなるというものだ。世代が古すぎるのだろうか。

文章が生きるか死ぬかは、書き出しの一行と同様に、結びの一行で決まることが多い。厳密にいうと一行ではなくて二行ぐらいのことが多いが、いちおう、一行ということにしておこう。もう数年も前のことになるが、現在、産業能率大学教授として、また中国問題の権威者として活躍中の戸張東夫氏が読売新聞本社の論説委員をされていた時、氏のお声がかりで「読売新聞」全国版の朝刊の論壇にたてつづけに三度登場させていただいたことがある。天下の大新聞の全国版に執筆できるということで、わたしは大いに張り切った。その時の気分の高まりを戸張氏は察知されたようで、「気楽に書いてくださいよ」と、ともするとコチコチになりがちなわたしの気持ちをやわらげてくださったものだ。さらに氏は、「原稿用紙四百字詰三枚程度の短文は、最後の一行で決まりますからね。この一行さえしっかりしていれば、その随筆はオーケーです」と、たしか、二度ほど私にいわれた。

戸張氏のいわれる最後の一行の重要さは、わたしもよく知っていた。実際に、長年、文章を書いてきた勘によるものだが、あらためて釘をさされると、それまで枚数にして何百枚も書いてきた文章の結びがうまくいっていたかどうかを振り返ってみたくなったものである。うまくいった文章もあれば、中途半端な終わり方をしたかな、と反省したくなる文章もある。わたしは、一九九二(平成四)年九月に、二百字詰三枚の短文エッセイを集あた『口笛』(待望社刊)という随筆集を出した。カンドー 遠藤泰男 総合教育月刊誌「悠」(ぎょうせい刊)に五年間にわたって連載したものを集あたものである。短文は、短文なるがゆえに終わりの一行がむずかしい。結びの一行で勝負を賭けるのが短文の宿命である。その中の一編を次にあげてみよう。まずはうまくいった一例ではないかと思っている。人を責あるだけではだめ、自分を責めてこそ、この短文の本旨が表れたのである。

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